この議論、なぜ今なのか——吉原に暮らす者として
2026年の春、私の手元に一つのニュースが飛び込んできた。法務省が有識者検討会を設置し、売春防止法の改正に向けた議論を本格化させるというものだ。
正直なところ、業界に縁のある者として、この動きは以前から予感していた。2025年から続く一連のソープランド摘発——特に吉原の老舗店が次々と捜査対象になる流れは、単なる個別事件ではなく、何らかの政策的な意図を感じさせるものだった。
そういえば、昨年の秋に吉原の通りを歩いた時、いつもより看板の灯りが少なかった。気のせいかと思ったが、馴染みの店の関係者と話すと「最近、雰囲気が変わってきた」と言っていた。あの時の言葉がじわじわと腑に落ちてくる今日この頃だ。
事の発端は複合的だ。2025年11月に東京・湯島の個室マッサージ店で12歳のタイ人少女が違法に働かされていた事件が大きく報道され、同時期に新宿・歌舞伎町での路上売春摘発も増加した。「売る側だけが罰せられる法律の不均衡」という問題が、改めて社会の表面に浮かびあがってきたのである。
本稿では、現行法の構造から今後の議論の方向性まで、冷静に整理しておきたい。なお、現時点では改正案は「検討中」の段階であり、確定事項はひとつもない。その点はまず明記しておく。
現行の売春防止法——なぜ「買う側」は罰せられないのか
売春防止法は1956年(昭和31年)に制定された法律だ。制定から70年近くが経過した今も、基本的な構造は変わっていない。
この法律で最も特徴的なのは、「買売春そのものを罰する規定がない」という点だ。つまり、実際に性的サービスを売り買いした当事者は、法律上は直接的な処罰対象にならない。処罰されるのは「勧誘行為」「場所の提供」「あっせん」など、取引を媒介・支援する側の行為に限られている。
場所を商売として繰り返し提供した場合は7年以下の懲役と30万円以下の罰金が科される。2026年6月に吉原の高級店「ルーブル」の経営者らが逮捕された際に適用されたのも、この条文だ。43年間、地域に根ざして営業してきた老舗がこうした形で幕を閉じることになったのは、複雑な思いを抱かざるを得ない。
一方で、客として訪れた男性も、その場所でサービスを提供した女性も、「行為そのもの」では罰せられない。この非対称な構造が「なぜ売る側だけが追い詰められるのか」という批判を長年招いてきた。
また、ソープランドは法律上「店舗型性風俗特殊営業1号」として風俗営業法の届出制の下で営業している。「許可制」ではなく「届出制」というのがポイントで、国家が正式なお墨付きを与えているわけではない。「禁止はしないが、積極的に認めるわけでもない」というグレーゾーンに置かれてきた業態だ。残念ながら、この曖昧さが今回の議論を複雑にしている面もある。
改正案の主な内容と「ノルディックモデル」——何が変わるのか
今回の検討会で軸になりそうなのが「ノルディックモデル(北欧モデル)」と呼ばれる考え方だ。
1999年にスウェーデンが世界に先駆けて採用したこのモデルは、「買春行為のみを刑事罰の対象とし、売春する側は罰せずに保護対象とする」という仕組みである。後にノルウェー、フランス、アイルランドなどが追随し、現在も欧米を中心に導入が広がっている。
フランスでは2016年の法改正で、買春行為に対して初回1,500ユーロ(約27万円)、再犯時は3,750ユーロ(約69万円)の罰金を科している。同時に、売春脱却を望む当事者への宿泊支援・就労支援も法律に組み込まれた。
日本の検討会では具体的に以下のような論点が議論されるとみられている。
まず、「買春行為への罰則導入」。買う側に刑事的なリスクを課すことで、売買春の需要そのものを抑制しようという考え方だ。次に「場所提供罪・あっせん罪の法定刑引き上げ」。有識者の意見は「引き上げるべき」方向で一致していると報じられている。そして「売春当事者への支援強化」。処罰ではなく保護・支援へのシフトだ。
ただし、どの程度の罰則になるか、未成年者と成人で扱いを変えるのか、合意のある成人間の行為をどう位置づけるかなど、詳細は今後の議論次第だ。こうした細部こそが実際の影響を左右するのに、そこが見えないまま議論が進んでいる点は、私には少し不安が残る。
吉原エリアへの具体的な影響——摘発増加と業界の変化
吉原を長年知る者として、この2年間の変化は肌で感じている。
2024年後半から2026年にかけて、警視庁保安課による摘発が目に見えて増えた。43年の歴史を持つ「ルーブル」をはじめ、かつて「優良店」として知られていた施設が相次いで捜査対象になったことは、業界関係者に大きな衝撃を与えた。
ある週末の夜、吉原の大通りに久しぶりに足を運んだとき、以前なら賑やかだった呼び込みの声が妙に静まっていた。「ああ、本当に変わってきているんだな」と思った。電車で移動しながら、この先どうなるのかと考え込んでしまったのは、おそらく私だけではないだろう。
摘発増加の背景には二つの要因があると考えられる。一つは、悪質ホストクラブ問題への対応だ。ホストに多額の借金を抱えた女性の「あっせん先」となっているとされる施設を断ち切る狙いがある。もう一つが、今回の売春防止法改正議論だ。改正に向けて「違法行為」であることを改めて社会に示す意味合いがある、と法律の専門家は指摘している。
すでに業界内では「売却ラッシュ」が起きているとも報じられている。法改正の先行きを見越した経営判断として、施設を手放す動きが広がっているという。法律が決まる前から、市場はすでに動き始めている。
仮にノルディックモデルが完全な形で導入されれば、客側が罰則の対象になる。買春行為が犯罪として定義されれば、それを業とするソープランドの法的根拠は大きく揺らぐ。最悪の場合、業態そのものの存続が難しくなるシナリオも否定できない。ただし現実的には段階的な対応になる可能性が高く、施行まで一定の猶予期間が設けられるのが通常だ。
各立場からの見方——賛否それぞれの論拠
この問題は、関わる人々によって見方がまったく異なる。それぞれの立場を整理しておく。
支援団体・研究者の立場
「買春は性暴力である」という考え方を基本に、買春者への罰則導入を強く支持する。Colaboをはじめとする支援団体は、売春に至る女性の多くが貧困・虐待・孤立などの複合的な困難を抱えていることを指摘しており、「自由意志の選択」とは言えないケースが多いと主張する。
セックスワーカーの権利団体
この立場からは、ノルディックモデルへの批判が出やすい。北欧やフランスで同法が施行された後、路上売春が地下に潜り、安全確認が難しくなったという実態が報告されている。「罰する前に働く環境の安全を守れ」という主張だ。また、「救済されるべき哀れな存在」というスティグマを逆に強めるという批判もある。これはかなり重要な指摘だと私は思う。
業界関係者・風俗店経営者
存続を懸念する声が大きい。法改正の方向性次第では廃業を余儀なくされる店舗も出てくる。従業員の雇用問題や、地下化・違法化によって当事者の安全が損なわれるリスクへの懸念が語られている。
利用者(客)の立場
買春罰則が導入された場合、直接的な刑事リスクを負う立場になる。現在は罰則対象外だが、改正後は1回の利用で前科がつく可能性すらある。フランスの事例では、罰則があっても需要が完全にはなくならなかったとも報告されているが、日本社会での影響は予測が難しい。
今後の見通しと私見——何がどう決まるのか
法務省の検討会は2026年2月に設置が発表され、今秋の臨時国会または来年の通常国会での改正法案提出を目指す方向性が報じられている。ただし、これはあくまで「目指す」段階であり、政治情勢や世論の動向によって大きく変わりうる。
歴史を振り返ると、売春防止法は制定から70年近く、実質的な改正がされてこなかった。それだけ「難しい問題」として先送りされてきた経緯がある。
今の私が最も気になるのは、検討会の委員構成と議論の方向性だ。フェミニスト研究者が多ければ北欧モデル寄り、法律実務家が多ければより現実的な落とし所を模索する形になるだろう。パブリックコメントや国会審議での議論も重要な変数になる。
一つ確かなことがある。「現行法のまま何も変わらない」という選択肢は、もはやほぼないと見てよいだろう。問題が可視化されすぎた。何らかの形で法律が変わる可能性は、以前より格段に高まっている。
吉原という土地で長年過ごしてきた私には、この変化の行方が人ごとではない。業界に関わるすべての人が、冷静にこの議論を追い続ける必要があると思っている。少なくとも、感情的な「全滅する」「何も変わらない」のどちらの極論にも、根拠がないうちは流されないようにしたい。それは、当事者として最低限の責務だと思っている。